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ありがとう

 投稿者:フナ  投稿日:2014年 6月12日(木)21時58分58秒
  まりっぺさんを知ってますか?
2003年にアザミの花の絵を頂いたきました。
自分は病に苦しんだいる時で勇気をもらいました。
感謝の気持ちを伝えたいです。
 
 

ふうてんの寅 様

 投稿者:ao  投稿日:2012年 9月 3日(月)20時50分16秒
  岐阜の自由グループも、早、一年です。今年は選挙もあるとのことから、結成一周年大会は、12月になりそうです。場所は、岐阜文化会館です。
ちなみに、十月は、大垣文化で、西濃の方中心です。八月の炎天下での、瑞浪文化は、厳しいものがありました。
やるぞ。大垣、岐阜。おっと、その前に、11月には、ハーモニーホールで東京の合唱団がやられるそうで、岐阜からも出席するよ。という方々がたくさんいます。特に、女子部婦人部の方々が多いです。
 

青森に行ってきました。

 投稿者:ふうてんの寅  投稿日:2012年 5月13日(日)03時36分21秒
  沖縄のうるとらまんさん、がんばってますね!
自由グループが池田先生から命名されてから5月3日で35周年を迎えることができました。
東京も総東京の中に、23区で構成する東京自由グループと第2総東京自由グループに発展
しました。
全国には、まだ自由グループのできていない未結成県が12県あります。
法自ら拡まらずであります。自ら現地に飛び込んで、自由グループの種を植え、育てあげて行かねばとの熱い気思いでいっぱいです。

そんな思いから、4月に青森に行くことになりました。
東京駅八重洲口から、JR高速夜行バスに揺られて、翌朝、青森駅に到着。
駅前のジャパレンで、レンタカー7をかりて、津軽の町をはしりまわりました。
最近、体調が崩れてしまったと聞いていた婦人部と会い、「よくきてくれたね」と
喜んで7いただき、前向きに考えをもってくれたように感じ、また来るねと言って
次の訪問地の浪岡町に車をはしらせました。浪岡町には壮年部がいて、9月頃に座談会を
青森文化で行うので、参加を約束することができました。次は五所川原の壮年部宅まで
ひとっ走りし、自宅でお会いすることができました。
また、その日の夜の青森文化では、本幹の同時放送に参加し、新たに1人壮年部を掌握することが
できました。翌日の昼の本幹の前に、前回掌握することができた青森市内の壮年部宅に訪問することができ、とても喜んでくれていました。午後の本幹に参加し、また新たに壮年部、婦人部の2人の
掌握をすることができました。今回の青森訪問で3人のメンバーを掌握することができ、その日の夜行高速バスで東京に戻りました。
とても、充実した青森訪問でした。

 

(無題)

 投稿者:うるとらまん  投稿日:2012年 4月30日(月)03時55分31秒
 

先日奈良県立ろう学校の生徒さんが修学旅行できてくれました。
動画は生徒さんが手話歌しています。真ん中の男性は盲ろうです。目も耳が不自由なので、どうやって手話歌するのだろうと疑問におもっていました。隣の女性が触手話で伝えていました。感動しました。盲ろうでも、すこしの援助があればなんでもできるんだと思いました。
演奏は耳の聞こえない乙女とサポーターのバンド、くくるバンドです。
9人のメンバーのうち5人は同志です。役職はないのが多いですが地域貢献頑張っています。
 

体験読ませていただきました。

 投稿者:ふうてんの寅  投稿日:2012年 3月23日(金)04時41分5秒
  うるとらまんさん

とっても素晴らしい体験、ありがとうございました。
学会員としての誇りを感じ、地域貢献を続けられている
ことに心打たれました。

自由グループ沖縄拡大の折、ホテルまで駆けつけていただき
うるとらまんさんの、障がい者に対する熱き思いを語られていた
ことを、今も鮮明に覚えています。

これからも、沖縄健児としての戦いを応援しています。
 

ありがとう

 投稿者:うるとらまん  投稿日:2012年 3月21日(水)22時08分30秒
  ふうてんの寅さん、ありがとう。
妻と私の体験談紹介させてください。



今晩は元気いっぱいやりますので宜しくお願いします。

私が母のおなかにいる頃、風疹が流行し約400名の聾唖の赤ちゃんが生まれました。その一人が私です。

私の耳がまったく聞こえず、補聴器をつければ音は聞こえますが高低音がきこえません。

三歳から聾学校幼稚部に通い、唇の動きから話を読み取る訓練、舌がまるくならないように皿をなめる練習、あごに風船をくっつけた時ののどの振動で音とは何かを教えてくれました。健康な赤ちゃんは会話を通して自然に言葉の数を増やしていきますが私にはできません。

母はミルクの言葉を教えるために、どんなに泣き叫んでも、ミルクといえるまで与えてくれませんでした。周りの人から虐待しているように見えたのか「かわそうに、それでも親か」といわれました。
そして、私が6歳の頃、母がいつの日かと待っていた言葉、お母さんの言葉が言えるようになったのです。



 近くの小学校に通いましたが、耳の障害のため、いじめられまいた。父の仕事も失敗し生活が苦しくなりました。
そんな時、婦人部が尋ねてきてくれました。
この信心は冬は必ず春となる信心です。との確信ある言葉に、母はみかん箱にご本尊様を御安置し仕事信心に頑張りました。
私がいじめに耐えることができたのは題目をあげ貧乏に負けず働く母の姿があったからだと思います。
 ある日、担任の先生は、耳が不自由とはどういうことか話してくれました。すると信じられないことがおきました。
同級生が一人、また、一人と「いじめてごめん」と謝ってくれたのです。
題目のすごさに驚きました。


 中学校では先生から健常者と同じ教育は無理と言われ友達の会話に入れない孤独感がありました。
そんな私に女子部のお姉さんが夢をもつすばらしさを教えてくれました。
先生になることが夢でした。先生は口に手を入れて舌の使い方を教えてくれました。
信心は難聴の私が先生になれるわけがないとの思いに打ち勝つ勇気を与えてくれました。
毎日教科書を読み返しました。成績は学年で一番びりからクラスで10番以内になり希望の高校に合格できました。


 高校ではNHK青年の主張大会に出場することになりました。
私は自分の声が聞こえず正しいアクセントがわかりません。不安な私に先生はヘレンケラーの話をして激励し発音指導してくれました。
大会では力の限り話しました。先生は泣いていました。私がどれだけの勇気を振り絞って舞台に立っているのかわかってくれていました。
これからの人生、辛いこと、悔しいこといっぱいあるだろう。目の前の苦しさから逃げることなく乗り越えてほしいと舞台にいるだけでよく頑張ったと喜んでくれました。
最優秀賞の発表に驚きました。私の名前が呼ばれたのです。言葉は健常者の100倍努力してきましたが健常者に追いつくことはないと思っていました。
先生の恩かみ締めました。

大学合格しましたが難聴の生徒では無理、前例がない、先生はあきらめなさいと言われまいた。
そういわれてもやってみなければわからないと度重なるお願いに大学は一切の援助はしないとの条件で認めてくれました。
黒板に字を書きながら授業を進められたら先生の唇がよめず授業がわかりません。
耳が聞こえる人をうらやんでも耳が聞こえるようにはならない。聞こえない現実を受け入れるしかないとわかっていても耳さえ聞こえればと愚痴がで悔し涙が流れました。
題目あげました。題目上げながら自分はベストを尽くしていないことに気づきました。
耳が聞こえなくてもわからないことは先生、友達に教えてもらうことができることにきづきました。教授は熱心に筆談で教えてくれました。

努力は実りました。卒業論文が最優秀賞になり、難聴者としてはじめて教員免許を収得し卒業できたのです。


 その後、臨時教員しながら本採用をめざしましたが集団面接で落ちました。私には他の受験者の話を聞き取ることは困難で7年の臨時教員生活に悔いはありません。
新たな気持ちで仕事を探しましたが、電話の応対ができないので断られました。
そんな時、心の支えになったのは定時制高校の生徒の姿でした。昼間の仕事の疲れに負けず、眠たいのを必死にこらえ勉強する生徒、
授業に間に合わそうと廊下を走る生徒、戦後の貧しさから勉強できなかった年配の生徒さんが覚えられないと言いながら何度も教科書読む姿を思い浮かべ、私も負けないと勉強し平成10年、県職員採用試験に合格しました。

人生の素晴らしさは人と人が出会い、支え会うこと、その中で人生のパートナーと出会い、やがて長男が生まれました。
息子にミルクを上げているとき思うことは母のことです。
泣き叫ぶ我が子にミルクといえるまでミルクを与えなかった母、きっと胸の張り裂けるような毎日だったと思います。
母のおかげで皆さんの前で話をしている自分がいます。

最近、母を東北旅行に招待しました。日本一の露天風呂で孫を抱きながら「かわいい、かわいい、こんな幸せくるとおもっていなかった」と喜んでくれました。
娘の耳が聞こえないとわかったときの驚き、それから、どうやって育てていけばいいのか、迷いながら、わが子の幸せだけを願い無我夢中で人生を駆け抜けてきた母に、一児の母になった今、感謝の思いが湧いてきます。
母の喜ぶ姿に幼い頃、教えてもらった冬は必ず春となるの言葉が重なり、幸せかみ締めました。
貧しかった実家のみかん箱は仏壇に変わり、ヨーロッパに家族旅行できました。

結婚以来、7年間、先生に手紙を書いてきました。その中で、手元に保管して置きなさいと送り返してくれた手紙があります。
その手紙を紹介します。
「太翔が満一歳になり元気に遊んでいる姿に信心して本当に良かったと思う毎日です。池田先生から頂いた揮毫を拝見するたびに勇気と希望が湧いてきます。近くの小学校でいじめについて講話する機会がありました。
校長先生から「教師児童すべてに価値ある内容でした」と喜んでくれました。聾唖の友人は私達の気持ちを伝えてくれてありがとうと感謝してくれました。
聾唖の友人でいじめにあったことのない友人は一人もいません。
今でも社会的差別と戦っています。これからの人生、夫婦で力を会わせて耳の聞こえる人、聞こえない人を結ぶ活動に邁進してまいります」との内容で池田先生との誓いとなりました。

 その誓いが実りました。
村の婦人の主張大会で優勝し県大会に出場することになりました。
私の原稿を村の婦人会が何度も推敲し発声指導してくれ、県大会当日はバスを貸しきって応援に駆けつけてくれました。村の人々には何度も助けられました。これも主人の亡き父母が村の老人会長、民生委員、主人も体協理事として地域に貢献し、地道に信心を貫いてきた母の福運のおかげだと思います。
幸運にも難聴者としてはじめて県知事賞を頂きました。
主人が私の手話通訳している姿がテレビで放映され、村の人々から村の誇り、最高の夫婦愛と喜んでくれました。
前後しますが私の体験を聞いた新来者にご本尊送りができました。
池田先生から「拝見しました。すごいね。手元に保管しておきます。ありがとうございます。真心感謝します」との伝言を頂きました。
先生からすごいねと喜んでくれ、これ以上の喜び、勝利はありません。

これも体験発表の機会を与えてくれた皆様のおかげです。
ありがとうございました。


うるとらまん


今から7年前、人にだまされ仕事、信用、財産すべてを失い非難中傷の嵐でした。

 そんな渦中の中、結婚を約束した人がいました。
私は言いました。
「お金も仕事も何もない。結婚は破棄しよう」

彼女は言いました。

 「辛いとの字に一本線を引いたら幸の字になる。だから二人で乗り越えていこう」

といってくれました。

結婚式はあきらめていましたが学会嫌いの親戚から「こんな時こそ、団結して応援すべきだ」と資金援助をしてくれる親戚のおかげで、生涯忘れることのできない結婚式を行うことができました。

結婚後、村の区長が私を公民館建設委員に推薦してくれました。
村の悲願であった公民館が完成し、玄関前に飾られた村の発展に貢献してきた方々の写真をみて涙がでてきました。

おじいちゃん、父、私の写真が飾られていたのです。
自分の子供に孫に、お父さん、おじいちゃんは、村のために頑張ったぞと自慢ができると思いました。


以前、私はパワーリフテイング協会の顧問に白保を推薦しましたが断られました。
その後、役員としてがんばり、4年後にもう一度、お願いし、「おまえが推薦するなら、かまわない」と正式に理事会で白保が顧問に決定されました。
初めて、白保が試合の挨拶に来たとき、国会議員の先生が足をはこんでくれたと役員は驚き2回目は、またきてくれた。3回目は、「白保さんは、なんで誠実な方なのだ」と感嘆していました。
次の選挙では協会で推薦状をだして応援してくれました。

その功徳で役員をさせてもらっています。
やはり一番激励してくれたのは同志でした。
その同志がいなければ私は自殺していました。

去年、手話カフエくくるをオープンしました。その理由は二つです。


一つ。
聾唖者にカフェを楽しんで頂きたいからです。
聾唖者が健常者中心の社会で健常者に合わそうと、努力し疲れていることに気づきました。楽しいはずの買い物が耳の障害のためにストレスを感じています。
ならば、
沖縄県に一つぐらい、自由に手話で会話を楽しんで貰えるカフェがあってもいいのではと思ったのが一つの理由です。

二つ。
手話への理解を深めるカフェにしたいことです。
聾唖の友人から手話通訳を頼まれましたが、その周りの方々から迷惑だと断られました。目の不自由な人には杖、足の不自由な人には車いすが必要なように、耳に不自由な人には手話通話が必要であることを4年間訴えてきましたが、理解してくれませんでした。手話通訳の先輩達も同じような体験をし、心を痛めていることを知りました。
それをなくした、そのためには、実際に健常者が聾唖者と会う機会を作り、互いに歩みよって、ククルを分かち合って頂きたいとの思いから、このスタイルとなりました。


初めは、ろう者には接客は無理とか絶対につぶれるといわれましたが、くくるが一般紙でカラー一面で、テレビでも紹介されました。
マスコミの記者が、あなたをマスコミの人間として是非紹介したいといってくれました。

村長が村を有名にしてくれてありがとうとお礼を言ってくれました。


私には、耳の聞こえない人が聞こえる人に音楽の感動を伝える夢がありました。
それが、まさか、の出来事で実現しました。
ケントミさんのコンサートにくくるが友情出演することになったのです。

プロのレポーター吉澤さんの記事を紹介します。

ケン・トミ コンサートは奇跡でした

沖縄市民会館大ホールを満員にし、立ち見まででていました。

いまだかつて

大スターでさえ、満席にすることは容易ではない会場です

その会場を超満席にしたこと


さらには

耳の聞こえないくくるの乙女4人(ろうあの方)が
音が聞こえないという
ハンディを感じさせずに
リズムをとりダンスを披露しました
素晴らしかった!

その熱心な練習の繰り返しは出番直前まで
1秒でもおしいかのように
繰り返し繰り返し、もう休んだらということもせずに
それは頭が下がるほどに練習していました

そして見事に成功させました


これは大奇跡なのです(^^)




馬鹿にされ貧乏で悔し涙を流してきた私でした。しかし、7年後は先生から喜んでいただける戦いができました。先生からほめていただける以上の喜びはありません。仏間50畳の家が完成し、信じられないぐらい多くの人々の応援をいただき小学校からは学習支援のボランテア活動に対して感謝状をいただきました。4年間続けてきた英語塾から創価大学に合格者がでました。

 

拝見しました。

 投稿者:ふうてんの寅  投稿日:2012年 3月10日(土)23時35分53秒
  うるとらまんさん、大感動で拝見いたしました。
沖縄の地域に根をはり、見事に大輪の花をさかせましたね!!
うるとらまんさんが先生に誓った願いが実証としてみのったのですね!!
おめでとうございます。
今度、沖縄に行く機会があったら是非、よらせてくださいね。
とっても素晴らしい報告、ありがとうございました。
 

先生との誓い

 投稿者:うるとらまん  投稿日:2012年 3月 7日(水)23時20分45秒
  耳の聞こえない人と聞こえる人の橋になるとの誓いがテレビで紹介され実証を示すことができました。
 

信心の実証テレビにでました。

 投稿者:うるとらまん  投稿日:2012年 3月 7日(水)23時17分49秒
 

耳の聞こえない人と聞こえる人の橋になるとの先生との誓いがテレビで紹介されました。メンバーの半数は同志です。
 

(無題)

 投稿者:kazu  投稿日:2012年 2月10日(金)15時59分57秒
  東京第3総合 部活を【城東平和講堂】で行われます。
2月10日 20:00~21:30まで

太陽の間

よろしくお願いします。

http://blogs.yahoo.co.jp/kazu100786

 

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